かまふさてんまんぐう
宮城県柴田郡川崎町小野 裏山15−2
釜房天満宮由来 元和元年(一六一五年)九月、大阪夏の陣で敗れた豊臣方の武将、坂上秀理倉人は小松倉 まで落ち延び、小野前田に居を構えた。その折、天神を崇敬し屋敷の乾(北西)の方角に 社殿を建て、鬼門..
釜房天満宮由来 元和元年(一六一五年)九月、大阪夏の陣で敗れた豊臣方の武将、坂上秀理倉人は小松倉 まで落ち延び、小野前田に居を構えた。その折、天神を崇敬し屋敷の乾(北西)の方角に 社殿を建て、鬼門(北東)に厄除けとして神明社を祀り、辰巳の檀囲いを墓地とした。日の沢を駒立て場として馬場をつくり、いざという時に備えて武を練った。掛田には 釜場を設けて土器を焼き、地区民にその技術を伝えたという。 倉人の死後、寛永年(一六四○年)に至り地域の守護神として天神社と神明社を合祀して ●釜房天満宮と称するようになった。 明治四十五年四月裏山十五番地と交換した土地に轆轤で遷座、昭和の代へと伝えてきたが 釜房ダムの建設に伴い現在地に移築して奉祀した。 今は湖底の山岸十八番地には倉人が勧請したという集落の菩提寺真言宗の光明山法性寺が あぶみ あった。寺には倉人の鐙が預けられていたが大正六年廃寺となったため小野にある青雲山 西福寺に移され法性寺の宝物他、両大師、不動明王、八大童子、三十六童子とともに保管 されている。
自由
無料
有り
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