創建は明らかではない。「式社考」に大宝3癸亥年(703)九月、初めて圭田を奉り神事を行った。「総風土記」に圭田四十六束とある。「延喜式神名帳」に仁寿元辛未年(851)十月、参河国石座の神従五位下、「三代実録」に元慶七癸卯年(883)十二月二十八日、石鞍の神従五位上とあり。「伊呂波宗類抄」に石蔵神、例祭九月ニ之午、近隣十四カ村の産土神と。「三河国内神名帳」に正三位磐石倉大明神と記す。領主牧野右馬充康、成和志津村五丁八反歩を寄進する。新城藩主菅沼氏代々例祭に精米三俵を献じ代拝する。信長、家康、長篠勝利の報賽に字大宮十一番畑五畝二歩、三番田九畝十一歩を寄進した。明治五年十月十二日、郷社に列し、大正五年三月二十六日、字富永の山住社、字大宮の厳島社、字須永の青木社、熊野天王社、字牛倉の茶臼神社の五社を本社に合祀する。大正一三年三月二十一日、県社に昇格した。