「奥郡故事集」に応安七年(一三七四)の勧請とあり。文明十二年(一四八〇) 戸田左近尉宗光田原城を築き、 神明宮を今の社地に遷す。 元和元年(一六一五) 田原城主本多豊後守康紀、大阪夏の役に出陣の鉄砲の弾丸甲冑に命中したが、甲冑の中に納めた当社の神札が玉除けとなり、危うく難を逃れ、帰国後報賽に拝殿を造営、社領二十石を寄進した。慶安元年(一六四八) 徳川家光朱印を以て五石を寄進する。明治五年十月十三日郷社に列格、同四十年十月二十六 日供進指定社となる。 昭和五十六年十月十三日夜火災により本殿焼失。 翌五十七年八月二十六日、本殿を造営再建した。神徳 学業成就、除災。