おだじんじゃ
和歌山県橋本市高野口町小田76
以下、和歌山県神社庁より抜粋。
小田神社は、饒速日命の十三世の孫である物之部武彦(建彦)命を主祭神としてお祀りしている。 この神は物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。 醍醐天皇の延長..
小田神社は、饒速日命の十三世の孫である物之部武彦(建彦)命を主祭神としてお祀りしている。 この神は物之部尾興連公の弟神で小田連等の祖である。 醍醐天皇の延長5(927)年に撰上された『延喜式神名帳』に、「小田神社」として記載されている式内社(紀伊国で31社、伊都地方では天野大社とともに2社)である。 又、平安末から鎌倉初期の編纂といわれる『紀伊国神名帳』には、「従五位上小田神」の名で神祗官の幣例に預かる官知神として伊都郡内5社の中に列せられている。 このように、往古の小田神社は、神域が4町四方(1町は109m)もあったと伝えられるほど、広大かつ立派な社としてその尊厳さは他社に及ぶものがなく、朝野ともに尊敬の深い大社であった。 しかるに、数度の兵乱のため社殿や宝物を失い、社地も荒廃して木陰に仮殿を設けてお祀りしていたが、紀州徳川の藩祖頼宣公が天和年中に旧境内本殿の跡に石の宝殿を建て「小田神社」の4文字を刻んで後世に伝えさせたという(これが現在の御神体となっている。 これによって「延喜式内社」の面目が作られ、江戸屋五兵衛なる町人が御神燈を献納したり、高野山から「式内社方角案内」の額が奉納されたりしている。 社名の「小田神社」は、地名に基づくものでなく、小田連公が大和からこの地に移り住み、その祖先である物之部武彦命を奉り祀りしことによる氏族名から付けられた名で、その建立は1,400年前と伝えられている。 江戸時代末に刊行された『紀伊名所図會』の「小田神社」の項に、次の2首が掲載されている。 守ります小田の御神の恵みとも しらでやしづがをしねかるらむ(読人しらず) 玉だれのをだの宮居はあれにけり 昔にかへすますらをもがな(小田 牛雄) 「物之部」は、「モノノグ(兵器)」と「モノノフ(兵士)」を掌る氏族の名称で、古来から大伴氏とともに我が国の軍神として崇められてきた神であった。 明治維新後の小田神社は、高野口町大字小田の氏神様として現在に至っている。 祭礼の日に行われた競馬は近郷の呼び物であったというが、今はその面影すら残していない。