じゅうにしゃじんじゃ
埼玉県深谷市武蔵野277-3
御祭神について 天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。天神七代とは、国常立尊(くにとこたちのみこと)・豊雲野尊(とよくむぬのみこと)・宇比地邇尊(ういじに..
御祭神について 天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。天神七代とは、国常立尊(くにとこたちのみこと)・豊雲野尊(とよくむぬのみこと)・宇比地邇尊(ういじにのみこと)・須比智邇尊(すいじにのみこと)・角杙神(つぬくいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)・意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃辨神(おおとのべのかみ)・淤母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこぬのかみ)・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)です。ただし、宇比地邇尊(ういじにのみこと)以下は男女二柱を一代として数えます。いずれも、天地開闢神話に現れる始原の神々で、地神五代の前に日本を治めたという天津神です。 また地神五代とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)・正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)で神武天皇以前の皇統の祖神とされています。 起源と再興について 伝説によれば、東征の折にこの地を通りかかった日本武尊がちょうど新年を迎えることとなり、しばらく滞在し兵馬や食糧の無事を祈願する為に天地十二神を祀り、士気を鼓舞したことが始まりとされています。当初は、西部の山地権現平に社がありましたが、江戸中期天明三年の暴風雨による洪水で崩壊し、御神体だけが宮地に漂着したことにより、そこに新たな社を設けて祀ることとなりました。 明治後期に政府の合祀政策により一度、中郷の八幡神社に合祀され「武蔵野神社」と改称しました。戦後、村に鎮守を取り戻そうという氏子の願い出により、昭和二十八年四月に、新たに境内を設けて武蔵野神社から神霊を分祀し、十二社神社は再興されたという経緯があります。 節分祭追儺式 節分とは、「季節を分ける」ことを意味しています。本来は、春夏秋冬の各季節の境目を指していましたが、今日では、立春の前日、冬と春を分ける時期に行われる行事として定着しました。 日本では、一月を「睦月(むつき)」とも呼んでいます。今では太陽暦(新暦)の一月のことを言っていますが、元々は旧暦の一月(現在の一月下旬~三月上旬頃)の名前です。 この時期は、冬から春へと季節が変る時期にあたり、陰と陽が「交わる(睦みあう)」ことで邪気が発生すると考えられてきました。その邪気をはらうために始まったのが、追儺式(ついなしき)、いわゆる鬼やらいの行事です。 十二社神社では、桃もしくは梅の木を使って弓矢を作り、恵方に矢を射った後に豆まきを行なっています。 (埼玉県神社庁HPより)
国常立尊、豊雲野尊、宇比地邇尊、須比智邇尊、角杙神、活杙神、意富斗能地神、大斗乃辨神、淤母陀流神、阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神、伊邪那美神