正元元年(1259年)、兵庫頭源頼政5世の孫である大田太夫廣政の子・大田松若丸が出家して釋眞蓮と名乗り、開いたと伝わる。もともと天台宗の寺院であったが、寺伝の阿弥陀如来像の裏書によれば、大永3年(1523年)2月18日とあるため、おそらくこのころ天台宗から浄土真宗に改宗したのではないかと推測されている。これとは別に、開山である釋眞蓮が親鸞聖人に帰依したとも伝わるが真偽は定かでない。
永禄7年(1564年)4月、今川家より命を狙われていた井伊萬千代(後の井伊直政)を2ヶ月間かくまったと伝わり、現在も法要の際には当寺玄関に井桁と橘の紋がかけられている。これはかつて、紋の使用を許可された名残とされる。
元亀元年(1570年)には織田信長の兵火に遭い、堂宇はすべて焼失した。仏像仏具は難を逃れたが、このころ代々寺を継承した大田家の血筋が、織田軍に殺害されたとも戦死したともいわれ絶えたとされている。
こののち、美濃国岩出城主・竹中半兵衛重治の弟が上多良の土豪・多良右近の縁によってここに閑居し、薙髪して11世となり釋浄念と称した。