おおにしじんじゃ
三重県いなべ市北勢町阿下喜276
阿下喜(上木)根元記 寛文5年(1665)などの古誌によれば(原文のまま)伊勢員弁郡志礼石之庄阿下喜村也。其始を問へども知る人なし。むかしの人の咄を聞けば、其上は上木と書たるよし。其因縁をしらず。伝..
阿下喜(上木)根元記 寛文5年(1665)などの古誌によれば(原文のまま)伊勢員弁郡志礼石之庄阿下喜村也。其始を問へども知る人なし。むかしの人の咄を聞けば、其上は上木と書たるよし。其因縁をしらず。伝聞此辺は桧山にて大木生茂り材木沢山なる処故此名も有か。(中略)織田信長の時代―上木城主片山大和守信保は、田切共拾23か村領す。元信州出にて、諏訪の氏人なり。依て、川原・向平・阿下喜ともに諏訪を勧請して氏神に用也。 その他の文献や口碑によれば、阿下喜は扇状地にできた集落であり、縄文時代から人が住み着いていたことは、土器などの発掘により確認されている。養老山脈からの悟入谷川・貝野川・田切川が阿下喜の北側を流れ、田切川の南一帯は水の恵みを受けて農耕を営む人々は祈りの場として「山の神」を祀っていた。 この辺りは「上惣作」と呼ばれ、明治40年合祀までは、大西神社と山神社(祠)が並存していた。 ちなみに、阿下喜の西、大西神社あたりを「惣作」といい、「惣田井水」が流れている。「惣作」も「惣田」も、みんながかりで作る田で、伊勢神宮などへ奉納する「米」を作っていた。大西神社の創立は不詳ではあるが、弘治年代(1555~58)上木城主片山大和守信保が現在地(上惣作)に建立したと推定される。 その後、荒廃していたのを貞享―元禄時代(1688年頃)新しい社殿造営の声がおこり、氏人たちの協力で立派な社殿が完成した。 古くは諏訪の大明神と呼び崇拝してきたが、天保7年(1836)大西神社の称を受け明治40年(1907)次の諸社を合祀した。 山神社 八幡社 八天宮 西之神社 谷坂神社 切田神社 赤神社
建御名方神
元旦祭1/1、春祭4月第1日曜日(大祭)、大祓6/30・12/31、八幡祭7月第4土・日曜日、秋祭10/8(大祭)
有り