足利将軍義視時代坪内藤左衛門藤原頼定なる者諸国浪々中織田家に附従、濃州松倉の里の知行主となり、其の末裔代々武功を顕し慶長六年坪内嘉兵衛の時に至り、知行所前渡に居を定め、安永二年十二月に坪内家の守護神として邸宅に隣接する現在の処に一宇を建立し知行所の村人と共に国家安泰、武運長久、五穀豊穣を祈願するに至れり。正徳亥(正徳に亥年なし)年より毎年一月二十五日を例祭日として坪内家より白米三斗を洗米料として奉献する様になり、願望成就の霊験著しければ、前渡村本郷総氏子となりて文武豊作を守護し給ふ神として信仰を深めるに至る。降って明治の代となり十一代坪内嘉兵衛昌壽の實弟資織は京都北野天満宮の宮司に任ぜられたるも続いて崇敬篤く、帰郷の際には必ず参拝北野天満宮千年祭萬燈記念の油皿、和歌等を寄進なす。安政四年棟札、文化十二年二月二十五日棟札あり。