正応元年(1288年)、明正坊により創建された。明正坊はもともと相模国から流浪を経て大間見村(現・郡上市大和町)に移り住んだ源氏家臣の武士・高橋判官季長で、本願寺2世・如信上人に帰依して法弟となり、正安元年(1299年)には友人の田代高綱と大間見村田代洞(現・郡上市大和町)に阿弥陀如来像を安置した堂を建てた。
その後諸事情から那留ケ野(現・郡上市白鳥町)に移ったが、勢力を伸ばした天台宗長瀧寺に排斥されて小野村(現・郡上市八幡町)を経て小駄良村鳩畑(現・郡上市八幡町)へ移されるなど転々とした。
戦国時代に入ると、石山戦争に加担したとがで織田信長から退去を命ぜられ、9世・了智は天正4年(1576年)に下津原村(現・郡上市八幡町)に移って道場を構えた。
10世・西了は許されて小駄良村鳩畑の寺へ戻ったが、道場は残された。この残された道場は現在地浄光寺となっている。
明和8年(1771年)、領主・遠藤胤忠の城塞を建築することとなったため寺地を手放した。代わりに小駄良鳩畑に新たに敷地と数百町歩もの広大な寺有林を賜り、本堂も再建された。
明治26年(1893年)、大鷲村(現・郡上市高鷲町)の杉本平次兵衛が出家して本願寺で得度し、法名として法寿と与えられた。この法寿が寺一切を譲られ、寺を継いで再興した。これ以降住職が高橋氏ではなく杉本氏となったが、山号は高橋のままである。
先代住職・杉本典門(すぎもとつねと)は大垣市立東中学校長や羽島郡笠松町立笠松中学校長、元高鷲村教育長なども務めた教育家であったが、2018年11月26日 23時に揖斐郡池田町の病院にて97歳で没した。