真手山健福寺は、西暦712年頃行基菩薩により元真手山(現在地より北に約2km)に開創。以後この地は梵唄歌讃の声絶えることなく、仏教文化の源泉となりました。また七堂伽藍が立ち並ぶ健福寺をはじめ塔頭寺院も数知れず「真手千坊」と謳われたと伝承されています。ところが、元亀元年(1570年)大友勢の戦火に焼かれ、慶長元年(1596年)には大洪水に遭うなど、雄大を誇った寺域も次第に荒廃していきました。
しかし関ヶ原の戦の際、当山の住職「増琳」が城主の武運と国家の安泰を念じて一万座の護摩法を修した所、「日峯様(肥前佐賀藩藩祖鍋島直茂)」の耳に届き、真手山裏山七丁余、真如山三丁余、本真手山拾丁余と計二拾丁に余る山々を寄附されたと言われています。さらに寛永11年(1634年)には河上山実相院の座主であった尊純が移り住み、現在地に健福寺を再興しました。現在も本堂に秘仏として祀られている御本尊「千手観世音菩薩」は、この際の建立であると伝えられています。
その後は、佐賀藩主鍋島家の祈願寺として信仰も篤く遇ぜられ、折にふれ藩主直々に参詣されました。現在参道南方にある「真手馬場」とよばれる地名は、藩主が当山へ来寺の折、馬を両側の松の木につないだことから地名として残ったと言われています。そしてこの際に祈願された御本尊こそ、今も本堂に祀られている秘仏「千手観世音菩薩」であると伝承されています。