勧請年月不詳。『文政7年(1824)村明細帳』に「神祠に牛頭天王・山神」とあり、明治5年(1872)の同帳には、「神祠に猪毛利谷神社・山神・水神社・走井社」とある.即ち、古くから牛頭天王社(素盞鳴尊)と呼び瀬木村の氏神として尊崇されていた。後に、猪名部造の祖神の伊香我色男命を併せ祀り、又、境内社として火産霊社(火産霊社)があった。『北勢町風土記』に当社が猪名部神社ではないかと推考する次の文書かある。書付を以て申上奉り候御事里人は藤井権現の社跡と申し恨えども、古くは藤王大明神と唱え申候由承り及び候。此所即ち員弁神社御旧跡と申し伝え候う。(中略)此処に一条の小川在り、只今にては宇谷川とのみ唱え候え共、他方よりはイモリ谷と呼び申候。(中略)往古洪水の節、猪名部神社流れ出し、只今の神社の地に止り玉い、此所に御社を建立し、牛頭天王と称し当村の氏神と崇め奉り候事の由、古老の伝説も御座候。(以下賂)明治3年庚午12月庄屋 佐藤甚蔵