延暦以前の旧社で、往古は戸田、吉際、大神、横内、田村の総鎮守であったが、中世以後横内のみ鎮守となる。承久元年六月(一二一九)将軍頼経鎌倉下向の際、当地に滞留し幣帛を供えた。承応の頃、領主三浦義村当地に山荘を経営し、時々鎌倉より来往して神仏を崇信し社寺を造営した。当社もこれに預かる。徳川将軍の時に至り榊原、本田、渡辺、高井、竹尾、渥美、細井、石川、鵜殿、大久保、間部等の諸旗本相次でこの地を米食し各々旧例により造営、寄進、参詣す。
明治六年八月十五日村社に列せられ大正六年三月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定さる。(神奈川県神社誌より)