いせじんじゃ
茨城県日立市金沢町4-12
金沢村の百姓、岡源衛門なる者1186年の後鳥羽天皇の御代、金沢村(今の金沢町)の飯盛山に毎夜、青白い光りを発するものが現れ 、その光りをたしかめようと 飯盛山に向かったが山中で迷い、とうとう疲れ果て..
金沢村の百姓、岡源衛門なる者1186年の後鳥羽天皇の御代、金沢村(今の金沢町)の飯盛山に毎夜、青白い光りを発するものが現れ 、その光りをたしかめようと 飯盛山に向かったが山中で迷い、とうとう疲れ果て篠藪の中で眠り込んでしまった。 すると 夜半を過ぎた頃、緋の袴をつけ、赤い帯の端を前になびかせ、まばゆいばかりの艶やかな顔立ちの美しい官女が忽然と現れ「汝、何者なるぞ、この山の光りを見届けたく籠りしなるか。この山の光りは外ならず。正しく黄金の精気発して光りを顕わすなり。 然れば汝、具にこの由を官に告げよ。かくいう吾こそは 天照大神 なるぞ」 と宣わせ給うたという。 ふと見上げると 先ほどの御姿はなく 消え失せてしまった。 それから鎌倉に馳せ上り この旨を伝えたところ、鎌倉殿から金堀職人を金沢村につかわし掘ってみると、さんぜんと輝く黄金を発見したという。 岡源衛門は ほうびにより「富」の一字を賜り、「富岡源衛門」と称したといわれます。 鎌倉幕府 源頼朝より、これは天照大神のご神託ゆえ黄金の官女が現れた篠藪の地に 伊勢神を天照皇大神宮として祀るようご沙汰があったので、村人は飯盛山の官女の現れた篠藪を三尺四方に掘り起こし、これを地元近くに移し、伊勢神宮として創建したそうな。 そして 村人たちに 崇拝された という。 「天照皇大神宮」 と称されたということですが、その後、元禄11年(1698)当時の藩主水戸光圀の命により現在のところに移され、以後明治6年、太政官布告により「皇太神宮」の名は伊勢のみとしたため 伊勢にちなみ伊勢神社と称されるようななったという。 (境内由緒より)
大日霊貴命(天照大神)
旧村社
不詳