推古天皇の御代、聖徳太子は自ら香木をもって十一面観音菩薩の像を刻み、太子の叔父君の良正上人に付与された。上人は、この地の石窟の中に弥勒如来の尊像を得て、太子彫刻の十一面観音と共に両本尊として祀り釈善寺と号した。その後、平安時代に至り坂上田村麻呂が東征の後、この地に来て寺を再興し、千石余の寺領を寄付した。東征によく勝ちたる由縁をもって釈善寺を改め繖山善勝寺と号した。創立当初は、天台宗に属しており、戦国時代になり織田信長によって、この地域の多くの寺と同様悉く焼かれた。仏体のみが村人の手で救い出された。寛文二年(1662年)八月、能登総持寺内芳春院の住職 日辰文猊師と同行の雪扇和尚が、衰微していたこの地を取り立てて曹洞宗とし、十一面観世音菩薩、弥勒如来を両本尊として護持されました。境内には、蓮華の刻みがわずかに残る石造無縫塔、鈴鹿の鬼の首を埋めたという鬼塚などの石造品、石仏や古墳が並ぶ。後ろの猪子山一帯は善勝寺の奥の院とされ、山上の岩窟には石造りの十一面観音が安置され、霊験あらたかなる北向の観音と呼ばれ、近在を問わず多くの人々から崇敬されている。