天平宝字六年杣川中流の矢川津の地に鎮座すると伝え、延喜式神名帳所載、甲賀八座の神社として知られる。もと杣川流域は二十二ヶ村開拓の祖神と仰がれ、杣一ノ宮と称された。中世を通じて甲賀五十三家を中核とする連合自治組織いわゆる甲賀郡中惣の参会がしばしば当社にて催された記録にみえている。
また、当社は古来請雨の霊験をもって内外に知られ、室町時代中期の文明四年大和国布留郷五十ヶ村より請雨の返礼として楼門一棟の寄進を受けた。現存の楼門(県文)これである。
天正年間、水口岡山城築城に際し当社別当矢川寺の坊舎が壊されるなど社頭が一時荒廃したが、慶長七年の検地帳に境内四町八反余とあり、慶安五年に拝殿、宝暦六年に本殿を再建し、正徳二年以来、水口藩の崇敬社に定められるなど江戸時代を通じ復興がはかられた。矢川の森から響く鐘の音は「水口八景」の一つ。矢川の遠鐘として親しまれたが、天保十三年十月四日未明、この鐘を合図に数千の農民が当社に結集、幕府の検地反対の一揆を起こし十万日の日延べをかち取った天保一揆(甲賀騒動)は上甲賀の農民と当社との深い関係を物語るものである。昭和五十三年秋、拝殿を再建、同五十七年県俳文学研究会の手で「甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 蕪村」の句碑が建立された。