当寺は、摂津国七大寺のひとつとして、中山寺、塩尾寺、円国寺などの寺々とともに聖徳太子の手によって建立されたと古書に見えている。文禄年間の豊臣秀吉の堺政策による強制分散のさい、堺から移築してきたらしいことが、現在の建造物(泉州型屋敷)や広大な寺領、そして両墓制から推察されている。
また当寺の本堂は、キリシタン改宗諸控、尼崎藩に関する手控など、そして元禄8年(1695年)ごろの仏具の一部や現在の当寺の庫裡の様式などいまも本堂の欄間の釼菱模様、襖の引き手、柱の釘かくしなどが残っており、そのキリスト教の十字をおもわせる装飾は、仏教寺院に隠れたキリシタンを連想させる。
伝記によると、天正年間荒木村重の乱によって、堂宇伽藍をことごとく焼失したが、そののち、宝永年間に泉州堺の碩学・宝州尊者が当寺を再建復興し、今日にいたっている。
現在では、ぼたんの季節になると300を越える花々で境内はうずもれ、「ぼたんの寺」として有名になり、季節の花で参拝者の目を楽しませている。
【摂津国八十八所巡礼より】