ほんみょうじ
群馬県伊勢崎市山王町857
名和古史によれば、当山は平安時代(十世紀)に天台密教の道場として開創されたとあるも開山祖は不詳である。 鎌倉時代、文永八年(1271)に宗祖日蓮大聖人が立正安国論を北條幕府に献上し、法華経によらね..
名和古史によれば、当山は平安時代(十世紀)に天台密教の道場として開創されたとあるも開山祖は不詳である。 鎌倉時代、文永八年(1271)に宗祖日蓮大聖人が立正安国論を北條幕府に献上し、法華経によらねば国に大難が起るとして一に自界叛逆の難(兄弟親族の相い争う)と、二に他国侵逼難(他国より攻略)の二つを予言したところ幕府は不届者として大聖人を捕え佐渡ヶ島に配流の身となられた。文永九年(1272)京都六波羅探題の時宗の異母兄時輔と鎌倉名越の北條教時が相呼応して兵を起こし、時宗討伐を企み、また、蒙古よりは使者来たると風雲急を告げる。大聖人の予言的中に驚いた幕府は「日蓮只者に非ず急ぎ召して意見を聞くべし」の声起こり、文永11年(1274)赦免が発せられた。文永八年に大聖人と共に長谷の土牢に捕らわれていた六上足日朗聖人は獄吏宿屋左衛門尉光則の宥怨によりこの報を知らせに師の大聖人のもとへ出立、五日後の夕刻当地に着き、境内の天神の祠に腰を下ろして休憩しているのを寺内より山主天台密教の山伏、三光院法印鷲林阿闍梨が望観し、寺内に招きゆっくりと休むように告げる。日朗聖人は大変喜び寺内に入りて山主法印と面談。その後法論となり山主法印は論破せられ、日朗聖人のお弟子たらんことを請い。日朗聖人もこれを喜ばれ、ご自身のご随身佛たる傳教大師ご真刻子育鬼子母尊神のお像を置かれ、帰途また寄る事を約束し佐渡に立たれ、日蓮大聖人にこの事をご報告され、大聖人も大いにお喜びになられた。大聖人は佐渡を立たれ、信濃路より上野路に入られた後、大聖人のお許しを得た日朗聖人は一行と別れ当山に立ち寄ったところ、阿闍梨は不幸にし頓病に罹り遷化されておられたので、大聖人に戴いたご本尊を掛け懇ろに阿闍梨の菩提を弔い。阿闍梨を開基となし、御自分を開祖とし、三光院鷲林阿闍梨山根本妙法華経寺と改め鎌倉に立たれた。 これ北関東における唯一の法華発軫の道場なり、戦国時代、北條、上杉、武田の戦場となり寺は一時衰微せしも、慶長年間名和の邑主平岩主計頭親吉の外護により、寶聚院日傅聖人(身延十三代)の弟子大僧都日應聖人を復興開山祖となして当山を再建せり。江戸時代より庶民信仰が盛んになり、当山の子育鬼子母尊神の祭りが盛大に行われ「山王道の鬼子母神」と近郷に喧伝されるようになり、現在も萬燈行列が行われて非常な賑わいをみせている。
佐渡に流罪となった日蓮聖人が御赦免となり、それを伝え、出迎えるべく佐渡に向かわれた六老僧の一人日朗上人が立ち寄られた寺だそうです。 11月には子安、安産を祈る鬼子母神の大祭が非常に賑やかに行われます。
鷲林山(じゅりんざん)
日蓮宗
久遠実成本師釈迦牟尼仏 鬼子母尊神
三光院法印鷲林阿闍梨
日應聖人
山王道鬼子母神
鬼子母神大祭 11月第四土曜日、日曜日
■東武伊勢崎線 新伊勢崎駅 から徒歩34分(2.7km) ■JR両毛線 ■東武伊勢崎線 伊勢崎駅 から徒歩39分(3.1km)
有り