むこうじまひゃっかえん
東京都墨田区東向島3-18-3
隅田川七福神の発祥の地百花園は、文化元年(1804年)に仙台の人、佐原鞠塢(きくう)が 開いたものです。百花園という名は『梅は百花のさきがけ』という意味で酒井抱一が命名したと いわれていま..
隅田川七福神の発祥の地百花園は、文化元年(1804年)に仙台の人、佐原鞠塢(きくう)が 開いたものです。百花園という名は『梅は百花のさきがけ』という意味で酒井抱一が命名したと いわれています。 鞠塢は日本橋で骨董屋として財をなした人ですが、晩年この地に隠退し、多賀屋敷跡を 買い求め、かねてから親しくしていた文化人の太田南畝(おおたなんぽ)〈蜀山人〉、 亀田鵬斉(かめだほうさい)、谷文晁(たにぶんちょう)、大窪詩仏(おおくぼしぶつ)、 加藤千蔭(ちかげ)らから寄贈された梅樹三百六十株を植え、梅園としました。 このために亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷と呼ばれました。そのうちに秋草を始め草木の数も 増え、江戸市民の絶好の行楽地となりました。 ちょうど文化・文政期(1804~30年)にあたり、江戸町人文化の最も栄えた時代でもあって、 人々は花と親しみながら茶を喫し、隅田川焼き(楽焼きの一種)を楽しみました。 この評判を聞き、時の11代将軍家斉(いえなり)もこの庭園を訪れています。 その後、明治時代、洪水による被害などによって一時荒廃したが、寺島村に別荘を構えていた 小倉石油社長小倉常吉氏が園内の旧景保存に努め、昭和13年に東京市に寄付されましたが、 太平洋戦争の際、大空襲のためすっかり損壊、昭和24年に東京都の手により、現在のように 復興されました。いま東京に残る名園といれれる公園は、ほとんどが大名の邸などですが、 百花園ばかりは、向島の隅田川情緒を結実した、町人文化の粋であるところに持色があります。 昭和51年(1976年)には、国の名勝史跡に指定されました。 蜀山人の手で「花屋敷」と書かれた風流の門をくぐると、四季の植物をあしらった庭の あちこちに、亀田鵬斉の「墨沱梅荘記(すみだばいそうき)」の碑文をはじめ、 数多くの歌碑や句碑を見ることができます。