当神社は、八幡3座を主祭神とし、古の海部郡衣奈荘(旧衣奈村・白崎村)の氏神であり、貞観2(860)年に創建された南海道で最も古い八幡宮の一つである。
鎮座の由来は『衣奈八幡宮縁起絵巻』によれば、「誉田別命、紀の水門(現在の大引浦)に上らせ給いし時、土豪岩守(上山氏の祖)これを迎え、大御酒、和布を奉る、命大に嘉し給いて岩守に[登美]の姓を賜い、この地を領せしむ、岩守これより命を衣奈の地に導き、行宮を設けたり(この行宮の跡が鎮座地である)、(大引)の地名はこの時奉る大御酒より起れり、(衣奈)の地名は、命の[胞衣(えな)]を埋めし故なりと…」。
社殿の傍に瑞石あり、「胞衣塚」と云う、安産の守石として信仰されている。
以後、室町・戦国時代には湯川氏の祈願所として崇敬篤く、氏子も又進取の気を持ち、紀伊水道の要衝を扼して海上に活躍、岩守の子孫も衣奈荘下司職・八幡宮神職として威を振いし為、社運隆昌(本殿・拝殿・末社17社始め楼門・中門・舞台・僧座・中座等が建ち並び本坊極楽寺始め6坊を有し、神主12人、神子3人、社僧20人が仕えた)を見たが、天正13年兵火に罹りて、社殿悉く焼失、其の後、徳川頼宣公紀伊国主として入国するや当社も再建されたが、旧観を復するに至らなかった。
その後、歴代藩主の尊崇篤く、例祭には名代を遺わし、臨時の祈願には、郡内では当社を祈願所とした。
明治に至り、神宮寺が廃せられ、43四年に氏子区域内の小社22社を本殿に合祀した。
(例祭)
祭礼に当り、下司上山氏7度半の使をうけ、24家の座衆と共に出社し、斎行する。
神賑行事は、誠に優美で、神事「神の相撲」を始め、衣奈(打ち囃し、稚子踊り)、小引、戸津井(童子相撲)、三尾川(餅搗踊)、神谷(稚子踊)、大引(打ち囃し)、神谷(稚子踊り)、吹井(唐船)などが奉納され、「えなまつり」として名高い。(和歌山県神社庁HP)