なぐさじんじゃ
和歌山県和歌山市冬野宮垣内2107番地
『本国神名帖』地祇三十座の中に、「従四位上名草比賣大神、従四位上名草比古大神」とあり、名草比古之命は神産靈命五世の孫で、天道根命五代の孫である。 また、命の妻名草比賣之命は、紀國造「智名曾」の妹な..
『本国神名帖』地祇三十座の中に、「従四位上名草比賣大神、従四位上名草比古大神」とあり、名草比古之命は神産靈命五世の孫で、天道根命五代の孫である。 また、命の妻名草比賣之命は、紀國造「智名曾」の妹なり。 紀伊國造、紀氏の氏神として奉斎いとも古く、その年号は詳ではないが、『延喜式』に(927)既に中言社(大明神)の名を列ね、8世紀後半、奈良時代最古の歌集、『万葉集』の中に「名草山事西在来吾戀千重一重名草目名國」無名 『風雅和歌集』(1346)の中に「名草山とるやさかきのつきもせず神わざしげきひのくまの宮」紀俊文 『夫木集』の中には、名草山を神域の榊を宮山のほとゝぎすを詠っている。 永仁7(1299)年に高野山宝亀院所蔵に依る『関東下知状』の中に冬野村云々とあり、文明7(1475)年後土御門天皇室町時代中期に五箇庄の名もあり。 正平16(1361)年に日前神宮の領となり地領の濫妨を防ぐため処々に出城を構え、冬野にも一ヵ所、三葛二ヵ所、黒江一ヵ所云々とあり。 冬野の出城跡地を今も字名「城山」と称して山城の跡を残し、その山上に若宮八幡宮を勧講し、祀れるを合祀して今は当社の脇殿に祀る。 要するに國造家紀氏の氏神として大古より、紀家の尊崇厚く、その祭禮奉仕も厳正絶大なものであったろうことは、宮司家に現存する紀朝臣(國造家)の墨付を見ても判然である。 中世以降は名草郡の産土神として、名草郡一郡の地主神であり一の宮として各地の尊敬厚く、宮垣内の神域近くの旧家数軒は、崇敬者の参篭の家 となった由で、今も昔の様がうかがえる。 天正13(1585)年兵乱により、若宮の出城を始めその他が兵火に遭い神域も荒廃したるも、紀家と徳川家との深交により、また、氏子崇敬者の篤志と宮司家の奉仕により再び旧態の姿となった。 明治40年1月訓令第1号により、民政の安定と神社の興隆を図るため、各地の神社を合祀されることとなり、明治42年2月25日、吉原・広原・朝日・出島・本渡の総ての宮々は、冬野「中言大明神社」に合祀され、その名も「名草神社」と改称せられ村社の社格を与えられた。(和歌山県神社庁HP)