ありおかじょうあと(いたみじょうあと)
兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
有岡城跡は,猪名川の西岸,伊丹段丘東縁部の一角に位置します。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところです。 天正2年(1574年)11月,織田信長の武将荒木村重は,伊丹..
有岡城跡は,猪名川の西岸,伊丹段丘東縁部の一角に位置します。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところです。 天正2年(1574年)11月,織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城しました。そして城の名を有岡城と改めて,大改造を行いました。城だけでなく,侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構の城としての価値を認められ,昭和54年12月に国の史跡に指定されました(昭和63年5月追加指定) 有岡城は城である「主郭部」と家臣団の住む「侍町」,そして一般町人の住む「町屋地区」に分かれています。主郭部は伊丹段丘が東に突出した位置に築かれ,西側と南側に人工の堀を設けていました。そして,侍町と町屋地区を含む東西800メートル,南北1,700メートルの範囲を堀と土塁で囲んだ「惣構」の城としました。また,北・西・南の要所にはそれぞれ「岸の砦」「上臈塚砦」「鵯塚砦」の3つの砦を築いていました。 天正6年(1578年)秋,村重は織田信長に反旗をひるがえし,有岡城は包囲攻撃をうけました。10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次のいる尼崎城に逃れ,まもなく主を失った城は侍町を焼き払われて陥落しました。 天正8年,信長の家臣池田信輝の嫡子之助が入城しますが,天正11年には美濃へ移り,伊丹は秀吉の直轄領となりました。その後大名は置かれず,いつしか城は放置され,江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。しかし,焼け残った町屋地区を中心に伊丹の町は酒造りで発展し,15ヵ村一続きの“伊丹郷町”として繁栄しました。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道(いずれも現在のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。 国鉄伊丹駅前の整備事業にともない昭和50年(1975年)から主郭部の発掘調査が始まり,北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡,駅西側の荒村寺跡からは庭園遺構が見つかるなど,予想以上によく遺構が残されていることがわかりました。その結果,駅前再開発計画の再検討がおこなわれ,遺跡のうち主郭部の一部(伊丹1丁目地内)と「きしの砦」が置かれていた猪名野神社境内,そして惣構の輪郭線である水路と道路敷きの一部が国の史跡に指定されました。また,その後の発掘調査により確認された堀跡についても,追加指定を受けました。有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査はその後も続き,発掘次数は300次を超えています。 有岡城跡主郭部の史跡公園整備は,昭和58年度から始められ,平成5年度に完了しました。土塁の石垣や建物・井戸・堀跡などが復元され,市民の歴史学習や憩いの広場として活用されています。なお,有岡城跡・伊丹郷町遺跡からの出土品の一部は市立博物館の常設展示や市立伊丹郷町館で見ることができます。
JR宝塚線 伊丹駅すぐ
無料
なし